微細な無限

微細の中にもある無限。

昔書いた詩を晒す

友達に見せるので、いくつか。

3つくらい。高校生から大学生の頃に書いたもの。

 







世界の果て


世界の果て みたいなところに 来た
擦り切れてよくわからなくなった
甘やかなものを
うしろに引きずって

ありがとう なのか 恨んでいるのか
それを 誰に 言うのか
鈍って考えられない
頭痛のように 感覚が波打つ

うしろを 見たくないのだ
そうして こんな とこまで 来てしまった
欲しいものは もう ないと
認めることが出来なくて

白青い色の空

体自ら
引きずって歩いて
ここから どこへいこう
倒れ込んで眠れる場所がない

甘やかなものも 擦り切れて全部ぼろぼろ
千切れてもうない









とぎれとぎれの 夢
甘く 境をとかしてゆくの
私はわからなくなってしまったわ

振り返ったら あなたがいたの
幼い顔で 変わらずに綺麗
私は 笑おうと思ったけれど
そう思いすぎて 上手に出来なかった

探した絵本
私が言いたいのはそれと違うの

あぁ、あなたにも
私はどこかで会った気がする
ねぇ、それは私の夢だったかしら?

甘くとかされて 全てわからないの

ゆっくりと冷たい夜の底で
しずかに狂ってゆけばいいのかしら?

あんまり懐かしくて
私は戸惑ってしまうのだけれど
ねぇ、何を忘れてきたのかしら?

やらなきゃいけない事 あった筈なのに
心が万華鏡のよう くるくるとしていて

しずかに狂っていくのなら
せめてつめたい夜の底がいいな
あと 風が強くて 月が出ていれば
いいのだけれど

とぎれとぎれの 夢も
現も
私はわからなくなってしまったわ











ブラックブルー


目眩がする。いつもする。
何を得よう。

価値があると言って。
誰か。

何を得よう。
末梢が、冷たいよ。
ここにいる。月もある。
でも目眩がいつもする。
吐き気もする。

感情の振れなど欠片も想像しないで
生きる?そうなの?
イメージがとんで、
夢の中で解だけ掴んで、
螺旋に沈む。誰か。誰か。誰か。

たすけて。
ばかにしてるんでしょう喧嘩売ってるんでしょう違うの?

 

うちの常夜鍋

 最近書くことがないけどとりあえず更新する。

 ホルモンバランスの周期により、わあにゃあと脳内で物思いの発生する時期とそうでない時期があるゆえ、仕方ないことである。

 

 そーだ、昨日食べた鍋について詳しく書こう。私の実家でよく食べられている鍋である。豚肉とほうれん草を主とするので、常夜鍋のアレンジであるということがおとなになってから分かった。実家では単に鍋と呼ばれている。

 野菜は、ほうれん草のざく切り、白ネギの斜め切り、えのき茸。肉は豚肉の薄切り、しゃぶしゃぶ用のなど望ましいが、つつましく豚こま肉でもよいわ。ほとんど北海道限定だが、しゃぶしゃぶ用ラム肉もよい。あとは、豆腐、しらたき、玉うどん。

 幼少の頃私や妹は白菜があまり好きではなかったので(今は好物だ)、この鍋になったのかなあと物思う。腎結石の気になる、シュウ酸の摂取制御をされているかたは、小松菜で同様につくるとよいです。

 水と酒を適量、昆布を敷いて弱火で出汁をとり、沸騰寸前で昆布は取り出す。ほんだしをひとつまみほど足す。そこに野菜と肉、豆腐、しらたきを煮立てる。

 卓上の各人の器、めんつゆをいれて、鍋のお出汁で濃い目に薄め、揚げ玉をパラパラといれたものをつくり、その器にとって食しまする。めんつゆが薄まり過ぎないように、具だけとるのがよい。薄まって少なくなってきたら器にめんつゆを足す。

 豆腐はゆらゆら踊ったら、あっつく煮えた合図。葱とほうれん草は、私はクタクタに煮るのがおいしいと思う。しらたきは妹の好物だった。

 途中で玉うどんを投入し、うどんも柔らかくなったら同様に器にとって、いただきまする。

 ほうれん草のあくがあるので、雑炊にするのはあまりおすすめしない。うどんのほうが、味もよく合うと思いまする。

 

 あーラムしゃぶ食いたいでござる。

サカナクションの、「僕と花」という曲の、冒頭の歌詞についての考察。

僕の目 ひとつあげましょう だからあなたの目をください /「僕と花」サカナクション

 

 いったいどうしてこんなことを言うのか。あなたを好きで、あなたも僕の目が欲しいとうっすらわかっていて?、僕はもちろんあなたの目が欲しくって。それでこんなことを言うのだ、と思うのだ。思うのだが。

 互いにあげあったあとそのそれぞれの目は機能するのか?機能しないのだとしても、するのだとしても、ずいぶん未来はないように思える。「共に生きる」という姿を目標にはしていないのではないか。

 一つずつ目を失くしあうなら、ずいぶんあだなことだ。いたずらなことだ。欲しいってだけで、片目になって世界を生きていかなきゃいけないのは道理に外れている。

 あげあった目が、なんらかの力で元の持ち主の目として機能するならどうか。相手の見るものをすべて自分も見るならば、それはずいぶん窮屈なことになる。すべてのあなたの見るものを僕も見たいのか、あなたも僕の見るものをすべて知るようにしたいというのか。

 そんな状態で、近くにいて、共に生きることはできないとおもうのだ。

 

 あぁ、もし、あなたと僕が、すごく離れているならそう願うこともあるだろう。

 そっか。だからね、きっとこれは、すごく離れているのだ。

 実際の距離がか、概念や気持ちの問題かはわからないが。

 

 もしこの言葉が恋ならば。

 

 

 個人的に、私が、昔に、切なく強く未来無く、これと似たことを思っていたような気がしたんだ。

 必ず叶わないことを、叶うと狭く迷い込むように強く、とらわれるように、思って、思ったそれも頭の中では真実だったこと。

 

避けるようにしていること

避けるようにしてることを挙げてみる。

 

「~~しなきゃ」という言い方。

テレビを見ること。

由来の分からない略語やカタカナ語を使うこと。

植物性脂肪のホイップクリーム。

暴力の映像。

カロリーゼロの甘いもの。

締め付ける服や下着。

1.5ペットボトルで甘い清涼飲料水を買うこと。

いじめられること、軽んじられること。

IDやアイコンを変更すること。

 

 

避けないようにしていることも挙げてみた。

 

新しいものを知ること。

お金の話をすること。

会いたい人と会うこと。

愛すること。

寝ること。

自由でいること。

伝えたいことを言うこと。

自分に素直にあること。

あったかくすること。

泣くこと。

愛とは (1)

 

 じゃーん。

 愛とは、とは良いテーマである。一生ものの飴玉であるね。(カンナは考えを転がすことを飴玉によく例える) (2)がいつになるかはわかんないけどまぁいつも考えているので続きはまた必ずそのうち興ると思う。

 

 この夏くらいに、「愛とは尊重である」という一文を思いついた。これはなかなかよい式である、私の物思いの、多くのかたちにわりと矛盾しない一般性があった。しかし、いわば「尊重」、という定数を持ってきたのであって、それがほんとに定数かな?とか、より根源的な定数で記述し直せて式がもっとシンプルにならないかな?(あるいは複雑になってきれいな式じゃなくなってしまうか?)とか、まだまだ飴玉を転がす余地は多いのである。

 尊重:価値あるもの、尊いものとして大切に扱うこと。(デジタル大辞林より)

 

 うむ。愛する人や物事を、価値あるものとして大切に扱うこと。よさそうである。よさそうじゃん。ラヴイズ尊重。これで一ヶ月くらい満足していた。

 しかし今日思いついたのだが、対象を尊重するためには、対象をよく知らなくてはならないという要素が必ずくっついてくるのではないかと思い至った。よくよく知って、この身のうちに、その対象をつくり上げるくらいに知ることが、対象を尊重するのには必要なのではないか。

 どうかしら。

 

 なにがどうかしらかっていうと、そうなると、エゴによる誤謬が生まれるという可能性が生じる。ある人物Aの、認識によって身のうちにつくり上げられた対象Bは、対象Bそのものではなく、Aの認識によるバイアスや不足、蛇足などが、かならず生じるわけである。それに基づいて生じるAのBに対する愛を、どう評価したらいいのだろう。

 

 どう評価したらいいのかって困ることはないのか? そっか、なぜそこで困るのか。すなわち、「愛は本当のことである。」これを、前提条件として持っているというか、持っていたいのであるね。私は。

 

 Aの認識によって身のうちに作り上げられたBを、いつでも、謙虚にほんもののBのことをようく見て、謙虚に更新していくことがどうしたって必要であるね。本当の愛に近づくためにはそれが必要で、人間に出来ることはきっとそれまでだ。

 愛は本当のことである、は、イデアだ。

 それでも、一本の式にしたいという夢と、実際はそうではないけれど、モデル・理想系を立てることには意味があると思っている、ということだ。

 

 書きながら考えてしまうのであまり整わない。(1)としてはこのくらいにしておこう。

ソーシャルネットワーク上の'自分'のコントロール

 

 現在に物理的に遠い友達や家族には、多く情報がいってもいい。

 物理的に近い友達や学校ないし職場の仲間には、あまり多くの情報がいくと、過多になる。

 多くの情報とは、即ち生データ、おはよー何時に起きたとか、お腹空いたとかご飯はなんだとか、ぎゃーとかにゃーとかぴよーなどの種々の独り言、別のクラスタへむけたお返事や会話、聴いてる歌の感想読んでた本の感想、空の感想景色の感想、ふと思いついたこと思いついたままに深化したりあらぶったりなげたり、身勝手に書き散らかして、返事もしばしばろくに返さない、そんな私の生きてるののだだもれの生データのことである。これは、生身の本人と毎日会うような関係にいる人に対する場合には、あまりに偏った情報の過多になる。(だからFBなどはむつかしいと思うのよね。)

 

 ネットワーク上に自我のあるということは、アタマのナカミがリアルタイムにずいぶん記されて行っていることなのだなぁと思うことよ。

 

 同じようにネットワーク上に自我のある友達相手には、現在、この生データ・多き情報がいっている。ネットに慣れている、いつか死んだらネットでもお葬式が必要だよねマジでと思っている我々、そー、ゆうー、我々同士ならば。

 仮に毎日会う関係でも、生データをだだ漏れで知らせていても良いかなぁ。

 んー。

 どうかな?

 考える。

 

 どんなに慣れてる我々同士でも、毎日会うなら、文字の自我のデータは、あまり知らせないほうがストレスが少ないのかもね。

出立の意識から、同じ場所で、始まり(連続)ということ

 

 9日間にわたる夏休みと、その間の北海道への帰省から帰ってきて今日である。

 

 お財布事情もあって、最近は、本州から地元へ帰るのは年に一、二回となっている。結婚して夫と共に実家に帰るのは今回が始めてだった。父、母、双方の祖父母の家を訪れて、楽しい時間をすごした。

 ここ数年の今までの帰省は、意識の上で、結婚前の帰省・もうすぐ遠くない未来に苗字も変わって、お家を出て行くね、という立場にどうしても立っていた。どうしてもそうなると、親と接するのにさみしくなってしまうのだった。

 しかし今回の帰省は、もう自分の立場が一つ進んでいて、彼岸、此岸、以前の自分からみれば彼岸であるが、今の自分は今ここに立っている。苗字も変わって住居も変わってすでに、未来にむかって連続したところに立っているのである。つまり、また来るねーというときに、また来るときも連続した同じ立場として来るので、さみしさが少なかった。同じようにまたくればいいじゃんというからりとした気持ちになっていた。

 母なども多分そうだったと思う、前よりさみしくなかったろうと思う。

 

 苗字が変わっても私も場所も同じだった、いや同じと言うか、変わることはあるだろうが、連続していた。

 

 変化は過ぎてしまえば、過ぎたので既知であり、滑らかで、連続したことなのであった。