微細な無限

微細の中にもある無限。

ソーシャルネットワーク上の'自分'のコントロール

 

 現在に物理的に遠い友達や家族には、多く情報がいってもいい。

 物理的に近い友達や学校ないし職場の仲間には、あまり多くの情報がいくと、過多になる。

 多くの情報とは、即ち生データ、おはよー何時に起きたとか、お腹空いたとかご飯はなんだとか、ぎゃーとかにゃーとかぴよーなどの種々の独り言、別のクラスタへむけたお返事や会話、聴いてる歌の感想読んでた本の感想、空の感想景色の感想、ふと思いついたこと思いついたままに深化したりあらぶったりなげたり、身勝手に書き散らかして、返事もしばしばろくに返さない、そんな私の生きてるののだだもれの生データのことである。これは、生身の本人と毎日会うような関係にいる人に対する場合には、あまりに偏った情報の過多になる。(だからFBなどはむつかしいと思うのよね。)

 

 ネットワーク上に自我のあるということは、アタマのナカミがリアルタイムにずいぶん記されて行っていることなのだなぁと思うことよ。

 

 同じようにネットワーク上に自我のある友達相手には、現在、この生データ・多き情報がいっている。ネットに慣れている、いつか死んだらネットでもお葬式が必要だよねマジでと思っている我々、そー、ゆうー、我々同士ならば。

 仮に毎日会う関係でも、生データをだだ漏れで知らせていても良いかなぁ。

 んー。

 どうかな?

 考える。

 

 どんなに慣れてる我々同士でも、毎日会うなら、文字の自我のデータは、あまり知らせないほうがストレスが少ないのかもね。