別れに対する感情について(愛とは(2))
ひるご飯食べるのめんどくさいなと思いながら何かを書く。
別れに臨むときの感情について。
別れがあるなーと、認識されて、そこに至るまでの少しの短い時間の間に起こる感情。わかりやすいことだと、卒業を前にした2月や3月とか。旅行の最後の日の午後3時、4時頃とか。離れ離れに住む日付の決まったあとの、その引越の準備の時とか。
私は小さい頃、その感情をユニット化して処理することが苦手だったし、ほとんどできなかった。遊びに来た人が帰ってしまう時や、自分が帰るときや、すごく悲しくてよく泣いた。学生時代の年度末などは、心情が安定せず、ストレスが多くあった。
別れが、過ぎてしまえば、案外けろっとしている。そりゃそうだ、人生は続く、永遠に泣けはしない。成長するにつれ、固まりで降ってくるその悲しさ、感情を繰り返して、「過ぎてしまえば案外けろっとしているんだ」という事実を自分によくよく説くことで、だんだん、日常生活に困らぬ程度にその感情をユニット化した。未来に続く、また楽しいことはきっとあるさ、時間は未来に続くよ、続くよと。流れる時間の先に流して、自分を納得させる。
でも、それのやりかたは、死別では使えないだろう。だって、流れる時間の先にも、死んでしまったものは、そのものはないのだ。
だから、より上位の解がいる。
私はまだ、ほとんど死別を経験していない。もう30歳になるのにねえ。祖父母も実親も、みなまだ存命だ。でも、もう少し私が生きたら、かならず、死別は私に訪れる。
一体どう納得したらいいんだろうな、受け入れたらいいんだろうな。中高生の頃などには、どうしたらいいのかなんてさっぱりわからなかったけど、だんだん、上位の解をぼんやりと感じ始めている。
それは、時間が、流れているのではないということだ。
物理量の時間、横軸 t 。それで、世界をとらえない、という概念だ。
科学を信頼しているし、もちろん時間は流れているんだけれど、もちろん時速を測るときは移動距離を⊿ t で割りますけれども、まぁ相対性理論の世界とかまでいけば、横軸 t もまっすぐじゃないし(すいません適当なこと言っています)、なにより、科学はさておき私が生きている私の世界は私によって認識されるものだ。
私の記憶や私の認識。私の脳と身体の情報処理。
そこで時間をまっすぐ正の方向にだけ流す、必要・必然はないのだ。
好きなときに記憶を取り出せばいい、自分でそうすることもできるし、そうしないこともできるし、自分の制御でそうできないこともあるし、急に現れる記憶、記憶は、それは、自分の眼の前で真実のように鮮やかになる。そういうことはたくさんある。
記憶と世界を大切にして生きれば、もう会えない人とも、また会うことは出来る。
そのためには、記憶と認識と世界を、クリアに見て、目を皿のようにしてみて、愛して、脳に刻んでおく必要があるから、きちんと、日々を、すきなものをよくよく尊重して、欺瞞は認識して、すなおなこころで、生きる。
あ、このエントリの一つ前はヱヴァQの感想なんで閲覧注意してください。