微細な無限

微細の中にもある無限。

カンナ会札幌旅行妄想

カンナ会札幌旅行案。

1日目AMに新千歳で集合、エアポートにて小樽まで移動。駅前から徒歩、手宮線あと歩きながら昼を小樽で食べ、ベネチアングラス美術館とガラス屋とルタオ本店をみる。17時ごろに電車で札幌市内に移動。市内ホテルにチェックインし荷物を置いて、ジンギスカン食べにゆき、二軒目どっかで飲んだくれて寝る。宿は大通〜すすきの〜中島公園あたりを想定。

2日目。天気が良ければ:午前中にレンタカー1泊2日借りる。モエレ沼公園へ。行きがけにもりもとでパン買ってこれをお昼とする。15時くらいまで公園で遊ぶ。その後定山渓温泉へ移動(車)。夜更かしして、温泉、ごはん、ボドゲなどをきゃっきゃと楽しむ。
天気が悪いかドライバー不在なら:地下鉄利用で円山あたり観光。道立近美、北海道神宮六花亭円山店喫茶室。その後バスかタクシーで定山渓温泉へ、その後同上。

3日目。宿チェックアウト後、車で市内中心部方面に戻り、途中で昼ごはんはラーメン屋かスープカレー、参加者の希望に従う。車を返し、大丸のアフタヌーンティーでお茶か、駅前の佐藤水産で買い物後、エアポートで新千歳へ。お菓子類は空港で買おう。温泉は定山渓で行ったから空港ではいいか。(笑) 晩ご飯はお弁当を買って各自飛行機の中で食べましょう。帰路へ。


3泊4日なら、市内2泊にして2日目の天候順不順を両方やれるね。こんな旅行をしたい。定員は5、6人、カップル参加推奨。(というかみずかんりりぱげんちゃみあたりを想定して組みました)


追記: 芸術の森美術館も捨てがたい。そっからタクシーで定山渓ってのもいいなー。

米津玄師「鳥にでもなりたい」とスピッツ「HOLIDAY」

米津玄師の鳥にでもなりたいが染みている。
「わたしはわたしでいたいの だからあなたのこと愛してる」
私が私であるためにはあなたへの愛を手放す訳にはいかないの、あなたが愛してくれなくっても。ということである。(と思う)
あなたが愛してくれないなら 私は生きてる意味なんてないわ。今更どうにもならないなら きれいな鳥にでもなりたいわ。

ここでカンナに思い出されたのが、スピッツのHOLIDAYという歌である。
「もしも君に会わなければ もう少しまともだったのに もしも好きにならなければ しあわせでいられたのに」
君を好きになったために自分が変わってしまったわい、もう戻れないな。ということである。(と思う)
この道は続く あみだをたどるように。君を探そう このまま夕暮れまで。

(カンナの仮定で、両者ともをシンプルに恋愛の歌だと思って解釈している。違うかもしれないけどね。)

どっちも切ない。そんでわりと対局にあるなと思われた。
HOLIDAYの方が若く、ナイーヴかな。思春期的。鳥にでもなりたいのほうは、まあ、ちょっと危ういけどぎりぎりのところで自己肯定がしっかりしている。(と思う)

どちらも片想いか、あるいは、とにかく一人で考えている心情のうた。そうである、詩は孤独である。

詩の連想はたのしい。

珈琲に関するライフハック

カンナさんは珈琲が好きで、家でもペーパードリップで飲む。

家で淹れる頻度は1〜2週に1度くらいである。

珈琲は豆で買うのが保存と賞味によいのだが、持ってるミルはちょっとちゃちいやつだし、また平日の朝に飲みたいときなどはゆっくり挽く時間を確保するのがむつかしいこともある。

 

そこで、現在このような手段をとっている。

珈琲店で100g、ペーパードリップ用に挽いてもらって買う。→家で、コーヒーメジャー1杯分ずつをアルミホイルでつつむ。→ジッパーパックにいれて冷凍庫で保管。

 

こうすると、1杯分取り出すときに残り分の吸湿や酸化が防げるし、飲みたいときに測る手間もかからず、とても便利である。

のでブログで発表してみたよ。

春だるだる

 春が来ましたね。

 なんか書こう。

 春はあんまり得意ではない、春の喜びはあるけれど、それは雪解けの喜び、動けるようになる喜び。不自由な子供(車を持たない)の、自転車に乗れる季節がまた来たという喜び、そういう記憶だ。

 本州では少し違う。夏の終わりがむしろ近いのかな、豊かな秋が来て、身体が楽になる時期。

 春はあまり得意ではない、それは年度の代わりがある季節だからだ。変化に晒されて成長や適応やを強いられる。

 学生という身分だったころの長さはまだ私によくよく染みている。

 何が苦手なのかって。花が咲いて気温が変わってゆくことに、自分の内側を覗いて、焦りが興る。温度が上がると反応の速度が上がる。置いて保留しておきたいものが、変わってしまってゆく、自分の準備が何もできていないうちに。

 体が動かないことがどうしたってある。機に乗れない、春の変化はそれをつきつけられる。それを嫌になる。

 

 まぁ、なんての、自分で自分のことを嫌になるということくらいで何かをなげてしまうわけにはいかないのよ。自分で自分のことを嫌になるということくらい、なんていうことじゃないのよ。

 ううん。

 「それでいいよ。」というのは停滞じゃない、停止じゃない。それでいいよ、とすることでそこから先に行ける。

風邪の時のこと。

家族にインフルエンザが出たので。

メモ的に。風邪等の疾患の際の準備を、書きだしてみる。

呼吸器系疾患に寄ったメモ。消化器系はまた別のことが多い。

 

 食事はなべやきうどんか親子丼、鶏肉と卵ときのこと、葱と生姜と出汁と炭水化物を摂る。私はかなり熱があってもなんでも、親子丼と鍋焼きうどんは味のブレなく作れるように訓練されている。

 肉には体を温める冷やすの別があるらしく、 温← 羊・鶏・豚・牛・馬 →冷 なのだそうだ。北海道の方ならば、手に入るので、お嫌いじゃなければ、ラムしゃぶあまり肉の卵とじ他人丼とかもよろしいかもしれぬ。お嫌いじゃなければ。

 ポカリ、枕元に水筒に入れて置く。コップとペットボトルどん、でもいいや。ポカリは冷やさないで飲む。

 薬。初期なら葛根湯、熱と風邪の鼻水は市販の風邪薬有効。咳がひどければ、病院へ。咳に関しては病院の薬は市販の薬よりかなり有効。咳が長く続く場合は細菌感染が疑われるので必ず病院へ、行ったほうが治りがはやいです。市販薬に抗生物質はないため。のどがひどく腫れる場合も二次感染余裕状態なので病院へ。

 しょうがスープ。マグカップに、味覇等の中華スープ元と、生姜のすり下ろしをひとかけぶんがっつりいれたもの。余力があったら胡椒やごま油、葱のみじん切り、ターメリックパウダー、枸杞の実など、好きなトッピング可。私は甘い生姜湯が苦手で飲めないので、この生姜スープを開発した。辛くてひどいくらいの量のしょうがをわりと苦なく飲める。発汗や鼻水で取られてる塩分も補給できる。すりおろしはチューブでも代用可、ただし1/3〜1/2本くらい絞っていれるけども。

 あたらしい綿の下着をちゃんと着替えて、普段のパジャマに古セーターや半纏重ね着して、眠剤がわりにパブロンかPL顆粒飲んでよく寝る。それに尽きる。

 

別れに対する感情について(愛とは(2))

 ひるご飯食べるのめんどくさいなと思いながら何かを書く。

 

 別れに臨むときの感情について。

 別れがあるなーと、認識されて、そこに至るまでの少しの短い時間の間に起こる感情。わかりやすいことだと、卒業を前にした2月や3月とか。旅行の最後の日の午後3時、4時頃とか。離れ離れに住む日付の決まったあとの、その引越の準備の時とか。

 私は小さい頃、その感情をユニット化して処理することが苦手だったし、ほとんどできなかった。遊びに来た人が帰ってしまう時や、自分が帰るときや、すごく悲しくてよく泣いた。学生時代の年度末などは、心情が安定せず、ストレスが多くあった。

 別れが、過ぎてしまえば、案外けろっとしている。そりゃそうだ、人生は続く、永遠に泣けはしない。成長するにつれ、固まりで降ってくるその悲しさ、感情を繰り返して、「過ぎてしまえば案外けろっとしているんだ」という事実を自分によくよく説くことで、だんだん、日常生活に困らぬ程度にその感情をユニット化した。未来に続く、また楽しいことはきっとあるさ、時間は未来に続くよ、続くよと。流れる時間の先に流して、自分を納得させる。

 

 でも、それのやりかたは、死別では使えないだろう。だって、流れる時間の先にも、死んでしまったものは、そのものはないのだ。

 だから、より上位の解がいる。

 私はまだ、ほとんど死別を経験していない。もう30歳になるのにねえ。祖父母も実親も、みなまだ存命だ。でも、もう少し私が生きたら、かならず、死別は私に訪れる。

 一体どう納得したらいいんだろうな、受け入れたらいいんだろうな。中高生の頃などには、どうしたらいいのかなんてさっぱりわからなかったけど、だんだん、上位の解をぼんやりと感じ始めている。

 

 それは、時間が、流れているのではないということだ。

 物理量の時間、横軸 t 。それで、世界をとらえない、という概念だ。

 科学を信頼しているし、もちろん時間は流れているんだけれど、もちろん時速を測るときは移動距離を⊿ t で割りますけれども、まぁ相対性理論の世界とかまでいけば、横軸 t もまっすぐじゃないし(すいません適当なこと言っています)、なにより、科学はさておき私が生きている私の世界は私によって認識されるものだ。

 私の記憶や私の認識。私の脳と身体の情報処理。

 そこで時間をまっすぐ正の方向にだけ流す、必要・必然はないのだ。

 

 好きなときに記憶を取り出せばいい、自分でそうすることもできるし、そうしないこともできるし、自分の制御でそうできないこともあるし、急に現れる記憶、記憶は、それは、自分の眼の前で真実のように鮮やかになる。そういうことはたくさんある。

 記憶と世界を大切にして生きれば、もう会えない人とも、また会うことは出来る。

 そのためには、記憶と認識と世界を、クリアに見て、目を皿のようにしてみて、愛して、脳に刻んでおく必要があるから、きちんと、日々を、すきなものをよくよく尊重して、欺瞞は認識して、すなおなこころで、生きる。

 

 

 

 あ、このエントリの一つ前はヱヴァQの感想なんで閲覧注意してください。

 

ヱヴァQ観た。もちろんネタバレを含む、感想を残す。

ヱヴァQ観た。17日の15時半から池袋で。

現在のこの世では、観終わるまで、ネット等の情報を断たなくてはならないので、まず観る前がしんどかった。

 

観る前のこと。どんなであっても受け入れるという気持ちで観るのであった。

 

 

 

最前列の端からの鑑賞となったので、きわどい平行四辺形になった画面を脳内補正しながら観たため、よく観れていない部分が多かった。もう一度以上は必ず観ると思う。

ミサトさんの年を追い抜いたなあと思っていたら、また、追いぬかれてしまった。

これは喜ぶべきことなのか、そうではないのか。

 

私には最後のシーンだけ鮮やかだった。アスカよ。アスカよ。

怒りながら、立たせて、お前もうシンジ許してるんだろ、助けてくれなくても何もしてもらわなくても許しちゃったら、どうすんだよ、それでいいのかよ、ああ、でもそうだよな、どうしようもないときあるよな。女の子はそうだよな、なんでも、結局怒りながら許すことあるよな。アスカよ。アスカよ。

3人でなにもないところを歩いてってるということに泣けた。